最近読んだのは大町テラス「一緒にごはんをたべるだけ」の最終4巻、横谷加奈子「遠い日の陽」、志村貴子「そういう家の子の話」2巻、オカヤイヅミ「ひとごとごと」1巻。

「一緒にごはんをたべるだけ」は、料理と婚外恋愛という両立の難しそうな内容を鮮やかに描ききっていて、最初から最後までずっと好きで読んでいた。
作品の中に一切そんなことは語られないのだけど、本当に作者が言うように結婚というのは恋愛が制度と一体化して永遠とか言い出したりセックスが縛られたりして、でもそれが当然のように語られてしまうという謎の状態で、そういった矛盾したことがずっと自分たちが生きる社会の中で曖昧なまま温存されてきたのはなぜだろうって思ってきた。
だから、タキちゃんとレイくんは本当に不誠実だったんだろうかとか、SNSで「気持ち悪い」とか言いながらもこの漫画を読み続けていた人たちのこととか、様々なことを考えた。
でも、この漫画は普通にシンプルで、瞬間のドキドキを見事に掬い取っているってことだけでもすごいんだよなあ、とか思う。

横谷加奈子の「遠い日の陽」は短編集で、コミティアで発表された作品などを含めて6編が収められているんだけど、どれもなんか男の子が妙にかわいいし、それでいてとても奇妙なうえに強い哀しさまであるのに不思議とのんびりしていたりもする。
特にすごいなと思うのが発想で、例えば表題作では高校1年生の主人公がフリマアプリで全然知らない男性の子供の頃の写真セットをなぜか買ってしまい、それからその男の子の写真を学校で眺めたり、用意したアルバムに収めたりするようになっていく。そうしたらその出品者からまた新しい写真が出品されて、という話だ。
この漫画を読んでいると、なにか新しいものを発見したような気持ちにもなり、自分が失ってしまったものに気付いたときのような気持ちにもさせられる。
鶴谷香央理が巻末に解説を書いているんだけど、自分の買う漫画ではたまに帯とかで鶴谷香央理の推薦文とかを見かけることが多くて、そのどれもが大抵面白い漫画のような気がする。

志村貴子の「そういう家の子の話」の2巻は、1巻から続く群像劇が新しいエピソードと絡んでいくというまさに志村漫画といった進み方なのだけど、たぶんこれまでに発表された漫画の中で最も地味なものなんじゃないかって思う。
それなのに、作品の内側で表現されている機微はとても繊細で複雑で、そしてこういった宗教二世というテーマを扱いながらもとても多面的に描いているような気がして、漫画っていうのはこういった形で進化していくんだ、って思わされる作品だった。
作者がそういったことを考えているかどうかはわからないけど、この物語が結果的に同じような誰かの気持ちを救うことだってあるのかもしれないって思った。

オカヤイヅミの「ひとごとごと」1巻は、近作と同様に、これからをどう生きたらいいんだろうということについて深く考えていくような作品だった。
44歳の主人公の女性を軸にしながら世代の違う3人のこれからとこれまでが独立して語られながらも徐々に交差していくという構成は、「ボールアンドチェイン」も彷彿とさせる。
想像よりも作品世界が息苦しく重たいのは、現代と重なるような状況でありながら、住む場所やライフステージが残酷なまでにわかりやすく整備されているように見える、いつかの未来を描いているからなのかもしれない。
子供がいないと住んではいけない地区、学生に義務付けられたGPSなど、極端ではなく、現代だって実際にはそうかもしれないという場面設定は、読む自分たちが暮らしている現代の空気がわかりやすく切り縮められているだけなのかもしれないと思う。
中学生にも中年にも高齢になっても、それぞれの未来は見つからなくて、だからこそそんな中で社会にまだ残っている猥雑で複雑で、予測できないなにかを求め続ける。
自分たちが生きている今はこの漫画の中よりはまだどうにかなりそうな世界なんだろうか、と考えながら読み、そして自分自身のことを考えた。
「ラディッシュを下から見る」も同様に、人生の折り返しを過ぎてこれからを考えることは、どうやって死に接近するかを考えることでもある。オカヤイヅミの漫画はそういったところにまで来たんだなって思う。
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