最近になってネットで好きな作家の読み切り作品が次々と公開されていて、どれも面白かった。

まずはジャンプ+が11周年だということで10/11から11人の作家が11ページの短編を公開していくという特集をやっているんだけど、これが面白い。
志村貴子の「11歳になってしまう」は、かつて作者が星新一の作品を漫画化した時のような雰囲気が感じられる少し不思議な読み切りで、最近の志村漫画らしく過剰すぎないちょうどいい塩梅だなって思った。
好き嫌いが分かれるみたいだけど自分は全ての作品が大好きな米代恭の「The 11th hour」も作者らしさ大爆発で、大仰なところも含めて大満足だった。
サイトウマドの「空を泳ぐ」もこいのぼりからの発想のすごさとそこにカラーをつなげていく使い方が素敵で、どの作品もこれで11ページかと思わされるような奥行きの広さと読後感があってすごいなあと思いながら毎日掲載作を読んでいる。

ながしまひろみの読み切り漫画「朝顔」が発表されて、オリジナル増刊だけではなくビッコミでも読むことができる。
76歳の朝子は週に1回病院に受診したあと、義理の娘の迎えを待つ間に喫茶店でモーニングを食べることを楽しみにしている。
ある日、うしろの席で明らかにマルチ商法だという男に怪しい水を買わされそうな若い女性を見かけて助け舟を出し、それがきっかけでお互いの話をするようになるのだけど、という始まりだ。
「わたしの夢が覚めるまで」を読んだときに、こんなにきれいでかわいいイラストレーションを描く人がこんなにダークで深い部分を照らそうとして、それがちゃんとこちら側に届いてくるんだってことにびっくりして、それ以来漫画作品が発表されることを心待ちにし続けている。
この作品もそんなところはやっぱり通底していて、やっぱりいいなと思ったり、いつも女性を素敵に描くなと思う。
この作品の前、去年の年末頃に「ペーパードライバーズ」という読み切りが同じオリジナル増刊に掲載されていたんだけど、これもビッコミでまだ読める。この話を読んでみると2つの作品がどこかでつながっていることに気付くかもしれない。
関係ないけれど、この前LINEでうちの母親(74歳)が送りつけてきた朝顔の写真のことを思い出しながら、この短編を読んだのだった。

とても話題になっていた奥田亜紀子の「シューリンガンの息子」は確かにすごい漫画だった。
子供や大人の発達の問題、世代間の感覚の違い、性役割の苦しさなど様々なものが一気に描かれながら、息子の聡太と彼が見る落語のダイナミックな世界がさらに重なった状態で後半の落語会に突入していく。
そして、聡太は一体どうなってしまうんだろうという緊張感がすごくて最後まで目を離すことができない。
聡太の父親は、ホモソーシャルな環境が当たり前のなかで苦しさを抑圧しながら生きてきたけれど、大人になってから新しい価値観とこれまで自分が適応させてきた価値観の中で煩悶する男、というものだと思う。
これは男の目の届きづらいBLではずっと描かれてきた存在だとも思うけど、「違国日記」の笠町くんみたいに、もう少し表に出てくるようになってきた気もする。
現実にいたら煩悶だけで許されると思うなよって思ってしまうけど、こういった男って漫画ではなんとなくかわいく思える(そんな事実に二宮ひかるは25年も前から気付いていたんだなと思う)。
そんな男を描く(見せる)、ということも一つの要素としたら、この短編にはどれほどが盛り込まれているんだろうって思う。
落語「死神」の世界と重ねながら、読み手の感情は複雑かつジェットコースターのように揺さぶられ続ける面白さで、でも、作家も読み手もこういう作品ばかりだと身がもたねえでやんすよと思ったりもするんだった。

あと、最近になってやっと読んだ大白小蟹の「みどりちゃん、あのね」は、父親の一周忌で故郷に戻った中年女性のみどりとそこで暮らす姪の静を中心に展開していく物語だ。
法事のあと行われた宴会では、台所で女性に食べ物を用意させながら居間で酒を飲んで大騒ぎする親戚縁者の男性たちが描かれる。そして、そんな男たちがいる場所にみどりは台所から一人で戦いを挑みにいく。
他にも、静が入っている野球チームの監督が、「うちは4人とも女の子なもんで 野球やらせたかったんだけどねえ」「女4人でフォアボールですよ」と笑って言うところを静自身が聞いてしまうというシーンなど、息苦しくなるようなエピソードが描かれていく。
読みながら、この話どこかで最近聞いたことがある、とずっと思っていたんだけど、それは今読んでいるチェ・ウニョンの「わたしに無害な人」に収められた「六〇一、六〇二」という短編とすごく重なっていたからだってことに気付いた。
男たちが法事のたびに訪れて酒宴を開き踏み荒らされる家。長男を産めずに人間扱いされない母親。
この小説を読んだときにも、本当に今でもこんなことが現実としてあるのだろうか、と同じことを思った。自分がこれまで生きてきて、こんな光景をずっと当たり前のように見てきたことは確かなのに。
これらは初めて描かれるテーマではなくて、もう誰かから告発されてきた風景で、でも今なぜ描かれるのだろう。
でもそれは今たまたま自分が目の当たりにしていないだけで、何度も繰り返し、あらゆる人によって描き続けられなくてはいけないことだと思う。
けれど、この息苦しいばかりの「みどりちゃん、あのね」は同時に、どういうわけか鮮やかで風通しのいい雰囲気にも満ちている。それはどうしてなんだろう。
それがもしかしたら、少なくとも、大白小蟹にしか描けない漫画という形で提示された希望のひとつなんじゃないかと思ったりしながら、4話以降が発表されることを待っている。
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