
名前がないこと、まだ表沙汰になっていないことだけで、存在しないことになっていることがある。
自分という存在はたしかにここにいて、それすらよくわからなくなってしまうときはあるけれど、自分の身体を自分で触るとたしかに自分はそこに存在している。
同じように自分が感じてきたこと、そして今感じていることも、ただここにあるだけのものだ。
それでも、既存の枠組みや言葉が存在しないと、それが思い込みや願望、一時の気の迷いかもしれないとか思ってしまい、なかったことのようになってしまう。
「ユニヴァースのこども:性と生のあいだ」は、中井敦子さんと森岡素直さんという「戸籍上は女性」のふたりが、これまで生きてきたなかで自分の性をどう見つめてきたのか、そして、どんな心の変化と周囲とのつながりによってこどもを迎えることになったのかについて語っている本だ。
もし、この内容がすごく乱暴に説明されるとしたら「女性同士のパートナーが精子提供をうけて子供を迎えるまで」となってしまうのかもしれないけれど、読んでいるうちにこれは、他人には些細であっても自分にとっては最も大事な部分について語っていく、そんな本だということがわかってくる。
この本はずっとふたりで話をしながら、素直さんのこれまでを中心に、敦子さんも含めた自分たちのこれまでのことを丁寧に語っていこうとする。
こどもの頃、男性に見える服をまとって素敵な女性の前に現れるという妄想を繰り返していたこと、それでも女性の身体でいることでとても苦しむこともなかったこと、女性として見られることへの恐怖がどこからくるのか考えたこと、フェミニズムの言葉と出会うことで世界を認識するための新しい言葉を知っていったこと。
女性的(な男性)だったり、中性的だったりする人を好きになってきたけれど、レズビアンという名称には自分の指向の全部は入らないような気がするということ。
ふたりの話はきれいに整理されたものではなくて、本当になにかを思い出しながら少しずつ話し足りていない部分を語っていくという感じなのだけど、そこには自分のジェンダーやセクシュアリティを明確なものとして語るような言葉はない。
読むにつれてそういった部分がわかってくると、ちょっと不安な気持ちになってきたのも確かだった。
他の人はこの本をどういった気持ちで手に取るんだろう、結局この人たちはどういう人たちなの? って思わないだろうかって、勝手にとても不安になった。
それは読んでいる読者である自分が、素直さんや敦子さんのようなことをずっとずっと考えてきたからだ。
男性として生まれ、女性でいることに憧れてきたけれど、自分の身体を嫌悪するほどじゃなかったし、男性をすごく好きになったこともあったけど、多くは女性を好きになってきた。
トランスなの? ゲイなの? バイセクシャルなの? みたいな自問をずっとしてきて、そういったことを話した数少ない人にも、「で、結局どっちなの?」と言われたりもした。
昔、「FtMのゲイ」っていう人を知って、なのにそれを短絡して、単にヘテロ女性なんじゃないのかな、って思ったりしたこともあった。(※FtM=出生時に女性を割り当てられたが、男性として生きることを望む人)
なのに今、その人と同じような実感を持ちながら考えている自分がいる。
自分自身は十代の頃からずっと、自らの性的なあり方について考え続けてきた。
その過程では、自分を表す言葉が社会に現れていき、それを少しずつ見つけていくことで、そのことに救われてきたと思う。
それは例えば、十代の頃に「ライ麦畑」を読んで、自分と同じような人間がこの世の中に存在していたんだってことを発見したことと同じようなことだった。
でもその一方で、いつも(その時点で自分が知っている範囲での)カテゴリーにはいつもちゃんと当てはまらずに、よくわからない肩身の狭さや疎外感を感じ続けてきたのも事実だった。
ここ数年でトランスジェンダーへのバッシングが苛烈になって、そんな言葉を見聞きするだけで辛く、でも「自分はそうじゃないかもしれないし」と思いながらもただ苦しさを感じていた。
そういったなかでここ数年でやっと思うようになってきたのは、自分自身にあるものっていうのは、「ただそのまま存在しているもの」なんじゃないだろうか、ってことだ。
SOGIの定義にあってもなくても、ただここに自分の肉体と同じように存在している感覚を持ちながら生きている。
ただそうある、ということが言葉を持たないと存在しないことになったり、他人から迷いや気のせいや願望にされてしまう。
それでも自分の中には、バラバラに存在した確かなものだけがあって、それが苦しさや違和や、時には嬉しくなるような感覚として確かに反応するんだった。
今に至るここ30年っていうのは、様々なアイデンティティを持っている人たちが言葉によって存在を取り戻していく過程だったと思う。
でも、揺らいだり、確かかどうかわからなかったりするような、言葉を持ちにくいものを抱えている感覚はあって、そんな自らのことをどう捉えたらいいんだろうっていう不安定な気持ちは残り続けていた。
そんななかで読んだこの「ユニヴァースのこども」のすごさは、”とりあえずわたしたちのことをそのまま話していくね”っていうところにあるんだと思う。
自分のこれまでを振り返ってみたらこうだったってことがやっとわかった、みたいな分別がまったくなくて、その時々でこうだった、こう感じていた、っていうことを揺れや不確定なことも含めて少しずつ語っていく。
なにか明確な理由とか動機とか、立場性とか、例えば「結局この人たちってなんなの?」みたいな興味に答えるようなことじゃない。ただそうである、ということを取りこぼさないように言葉で伝えていくことは、どれほど誠実で知的なことなんだろうかって思う。
わたしはこの本を読み始めてすぐに、これは自分自身についての本だ、って感じた。
これまで生きながら抱えていた気持ちが、そこに確かに存在していたんだと思った。自分にとってとにかく共感しかないけれど、他の誰かにはこれらのなにがわかるんだろう、って思うくらいに。
「この人たちは色々迷ってるんだな」って読む人もいるだろうしそれでもいいと思うけれど、この本はそんなに曖昧な本じゃない。
ふたりはただ、ここに確かに存在している自身について、恐ろしく正確なニュアンスで拾い上げ、そして丁寧に語っている。
自分の存在について簡単に語れる人もいれば、本1冊でも正確に伝えきれない人もいて(そんな人こそ他人に明確な説明を要求されてしまうけれど)、こういった不均衡に関しては考えてしまう。
だけど、これだけ語らなければ自分のことは全然ちゃんと伝わらない、っていう、そんな思いが苦しいほどに伝わったのも確かだった。
これは、ただ「そのままでいる」ことに苦しんでいる人にとって、まったく明確ではないからこそ果てしなく明確な、あなたについて語ろうとする「ことば」の本であって、自分がここに確かにいるんだということをずっと知りたかった、わたしやあなたのためにおくられた本なのだと思う。
だってふたりは、「あなたと話がしたいから、私のことを伝えるわ」って言ったんだから。そのことを真に受けて、わたしたちはもう、ここから自分のことを語り始めていいんだって思う。
ユニヴァースのこども:性と生のあいだ(シリーズ「あいだで考える」) / 中井敦子・森岡素直
創元社 1870円
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