昨日の朝出勤した直後から電話が鳴りっぱなしで、そのどれもが熱が出たので受診できないかという問い合わせだった。
途切れなく患者が来て、電話や応対が途切れたのは夜になってからだった。
年賀状でも作ろうかと思っていたのに、読むために持ってきた漫画や本も読めないくらい忙しく、そして疲れてしまった。
最近はなんとなく今年のことを振り返っていたんだけど、もしかしたらこれまでになかったくらいなにもない年だったかもしれない。
いや、橋本治展に行ったり、コミティアに初めて行ったりとかという貴重な経験はしたのだけど、普段の生活に関しては、毎日普通に起きて仕事に行き、仕事の帰りに何処かに寄ったり寄らなかったりして家に帰ってきて猫を触って寝る、日曜日には寝過ごして起きたら掃除をしてコーヒー飲んで 夕方にはスーパーで買い出しをする、みたいな毎日だった。
時折同僚とか友人とかと会ってご飯を食べながら話なんかをして、また家に返ってくる、という。
今の住居に移る前の20年間のことを思うと、住む場所はあるのになにかその日暮らしというか、レベッカの歌詞じゃないけど「毎日がキャンプしてるみたい」な感じだったと思う。
自分とか、自分の生活とかをとても乱暴に扱っていて、それはかなりひどいことだったんじゃないかって思うようになってきている。
そんなことをしているからこそ、他人に対して優しくするってことができていたのかもしれないなとも思う。それが本当の意味でなのかはよくわからないけれどね。
自分と自分の生活をちゃんと扱うってことは、他人に振り向けていた分を切り詰めてその分を自分に振り向けるっていうことだ。
自分の生活もちゃんとできない人が他人に優しくなんてできないとか、そんなこと言う人間もいそうだけれど、少なくとも自分にとってはそんなのは嘘だ。
自分がずっと怖かったのは他人に失望されることだった、ということも、ここのところずっと考えていることだ。
たぶん、自分の取り分がなくなるくらいまでやらないと、小賢しく自分の分を残しておいて、みたいに他人に失望されるって思って、そのことが怖くて仕方がなかったのだと思う。
だから実際にそうしてきたのだと思うし、そういうように思ってもらうように自分を荒く扱ってきたのだと思う。残りなんてないくらい自分のものを全部他人に使っているっていう状態を、どうにかして見せたいとずっと脅迫的に思ってきたんだと。
でも、そういったことって本人にとっては破滅的な一方で相手にとっては「あっそう、ありがとう」くらいのものだと思う。たぶん一般的な前提としては、お互いに自分の部分を削ってまではやらない、ということなので、そもそも前提が違うのだと思う。よもや相手がそんな滅茶苦茶なことをしているなんて想像すらしていないかもしれないし(そんな人同士なら本当に破滅だろうし)。
まあだから、この1年くらいっていうのは自分にとっては他人への不義理ばかりで、失礼なことばかりしてきたっていう罪悪感も多い。
でもいいやって思う。自分以外の人達だって「あっそう、ありがとう」くらいなんだろうし。
去年に今のところに引っ越して、少しずつ片付けや部屋の中に家具を配置したり、不要なものを処分したりということを進めている。
ただ、1つの部屋は物置になっていて、1年以上手つかずの荷物が置かれている。
最近また、その荷物たちを少しずつ片付けたり捨てたりしていっているのだけど、1年間不要だったものが2年目以降に必要になることなんてあるんだろうか。
物もそうだけど部屋も使用しなかったわけで、自分には一部屋多かったのかなとも思う。
でもこれは、なにか遠縁の子供を突然引き取って一人で育てなくてはいけなくなったりということはないにせよ、来るのかもわからない他人のためにあってもいいのかなとか思う。
なんかしみじみと、自分にはもうそんなことは起こり得ないんだろうなと思うけれど、イマジナリーななにかを住まわせておくためにもあの部屋はそろそろ空けておかないとなあと思ったりする。
いいことも悪いことも、自分が選択した結果なんだよなって思う。
そう言うととても当たり前なつまらないことを言っているようにも思えるのだけど、とても具体的に、仕様がなかったと言うよりは明確に判断できる時があって、そのときにした判断が今につながっているんだなあってずっと思っていた。
猫を飼って死んだ、ということもそういうことだし。
そういうことなんだなってことを思い出して、そのことを落ち着かせるために今年のある意味穏やかな時間はあったんだろうなって、今は思っている。