このコミックエッセイの始まりは、作者がかつてアシスタントをしていた当時に漫画家から受けた様々な性被害を、その本人に問い質していくところから始まる。
その過程で描かれていく作者や友人が「女の体」であることによって受けた凄惨な性被害の話はしばしば読むのを中断してしまうような辛さがある。
そして、そんな経験とともに、作者自身が持つ性別違和に関しても同時に語られていくことになる。
自分自身が経験を思い出して向き合い、そこから先に進んでいこうと藻掻いていく行動をリアルタイムで描いているということや、そのことで読者も作者と同じように方向感覚がわからないまま読み進んでいくことになるという感じは、ちょっと永田カビのエッセイとも似ているような気もした。
しかしどうしてここまで、と思いながら読んでいくと後半につれ、自分が自分のように自然でいられるそのために、自らと徹底的に向き合ってきたんだなということが徐々に伝わってくるようになってくる。
作中で、自身の性被害について、理性の部分では整理できているけれど感情の部分で苦しみ続けていることとか、自分がどういう格好をしてどういう存在として生きていきたいのかということとか、そういった部分にこのエッセイを通じて作者は改めて触れていく。
とても興味深かったのは、テレビなんかで「バカな女性を笑う」という場面を見て、自分は女じゃないしな、という視点で一緒になって笑っていたという話だった。
この話が他人からして複雑なのかわかりやすいのかはわからない。でも、読みながら自分は作者と逆の方向から「男」をバカにしていたりする感覚が今でもあって、自分のこととしてその感覚がわかる気がした。
他にも、男でいたいという思いを持ちながら、女性の体で生きている(し、その体で性的な快感を得る)ということを否定しない、というところも描かれてあって、あんまりこういった話を聞いたことがなかったのでちょっとびっくりした。これに関しても、自分は全く逆で同じだなあと思って読んだ。
その大多数と同じではないSOGIを持ちながら社会の中で自然な自分でいる、という状態をどれだけの困難さと苦しみをもって獲得していくのか(「獲得」させられなくてはいけないのか)という部分は、そういった思いをした人間にしかわからないのかもしれない。
自分なんかが自然にしていていいんだ、っていうこと自体が信じられない人間だっているんだよね。
でもそれとは逆に、それぞれがグラデーションの違う位置に立っているということに気付かないで、みんなが「普通の人」だと思わされている苦しさだってあるのかもしれないけど。
作者が「スタニング沢村」名義で連載している「佐々田は友達」は、この作品と全く違うやけに風通しのいい漫画なのだけど、性別違和を自覚している主人公の佐々田ばっかりが描かれるのではなく、学校という社会にいるそれぞれの一人として描かれているところがいいなあって思う。
このエッセイ漫画はとても辛いものでもあるけれど、そこにつながるように次の物語では、少しずつ周囲に自然な自分が認められていきながら、佐々田は佐々田として、なんとか息をしながら生きている。
女(わたし)の体をゆるすまで 上下巻/ ペス山ポピー
小学館 各1200円(電子版:各825円)