
3連休はほとんど寝ていた。
その間に変な夢ばかり見たけれど、旅行先で車を借りたのに返すのを忘れて引き返すとか、スーパーの棚卸しを急いでやらなくてはいけないけど全て暗算で、という夢とか、なにか切羽詰まった内容ばかりだ。一度、スヌープ・ドッグの自宅に招待されてスパーリングの手ほどきを受けるという謎な夢を見たけど。
でも、寝ようと思ったらこれくらい寝られるということは、疲れているのかはわからないけれど、身体か心がそういったことを求めているのかもしれないとか思う。
あとは、流しの足元に敷いているマットのごみを取っていて立ち上がったら、流しの上にある観音開きの扉が開いていて角に頭を強く打ち付けて頭から出血した。
昨日今日とまた仕事が始まって、特に大きな失敗もしていないのに緊張したり疲れたりして、あまり明るくない気持ちと相まって、他人の言葉を深読みしてちょっとした態度なんかをとても悪いことに捉えて勝手に落ち込んだりと、明らかに調子の悪い時に起こりがちな感じだった。
連休の間、玄関のドアを開けたら、空いていた隣の部屋の内見かなんかで人が来ていた。
男性の不動産会社らしき人がノブの上に厳重に掛けられていた南京錠を開けていて、その横に自分と同じくらいか少し歳上かもしれない女性が1人で立っていた。
自分は賃貸として所有者から借りて住んでいるけれど、多分この人は購入を検討しているんだろうなと思ってちらっと見る。
オープンハウスとかではないし、わざわざこうして中を見ようとしているのに来ているのが1人だけというのは、どういったことが考えられるだろう、とか思った。
この人は、ここでこれからずっと暮らしていこうと考えているんだろうか、とか。
もしかしたら自分のような人なのかもしれないなとか思ったり、自分はこの先のことをそこまで考えていないなあとか思ったりした。

昨日やっと鳥野しのの「egg」上下巻が届いて、疲れているけどちょっとだけ、と思って読み始めたんだけど、なんていうかめちゃくちゃに面白くてぐっと来たり刺さったりかわいかったりともう大好き、って思っていきなり元気になった。
少子化対策のために有償での精子・卵子提供が合法化された世界の話、というとSFっぽい雰囲気がしてしまうけど、これはもう現実に起こりつつある話だ。
血がつながっているからこそ家族、なんてこと今日び言わないだろうけど、誰かの卵子や精子を用いて子どもをもうけるということは、そういった前提がどんどん曖昧になっていくということで、だからこそ結局、人間はどうやってお互いにつながっていこうとするんだろう、ってことに向き合うことがとても重要になってくる。
この「egg」はそんな前提を基本に置きながら、これまでに同じような問いを繰り返してきた様々な「突然見知らぬ子どもと家族になってしまう物語」を受け継ぎ、そのうえ時にはそこに批判的な視点を加えながら複雑で行き届いているのに読んでて楽しいという漫画になっているんだからすごい。
しかし、とにかく読んでいて(いい意味で)たまらなかったのが、この上下巻を通してのもう一つのテーマとして、「一人で生きて死ぬ覚悟」をしている人間たちが描かれていた、ってことだった。
読んでいて、え、やだ自分のことかなこれ、とかずっと思っていた。
例えば、昔は誰かと会わなくなってもいつか会えるよね、と根拠なく思ってたけど、今は「会うことはもう二度とないかもしれない」って思うっていう、そういった気持ち。
なんか、こういった話って、もう少し前に読んだら辛気臭くてやだな、って思ったりしてたんだけど、こんなに捉え方が変わってくるなんて、って思う。
誰でも今からしか生きられないわけで、その今がかなり後退してしまったような気もするけど、でも今なりの希望ってあるかもしれないな、って少しポジティブな覚悟がついてきたような気も少しするんだよね。
隣の部屋を見に来ていた人も、当たり前だけどこれからについてとてもいろんなことを考えているんだろうなって、勝手に想像したりする。
あと、今日は2年前まで20年飼っていた猫、うりが死んだ日だった。
28歳の時に貰い受けてから、48歳になる年まで、自分の人生20年分を一緒に暮らしてきたから、亡くなったあとはそれ以外のことも重なりつつ、これまでのものを全部なくしたくらいの気持ちでいたんだった。
今日職場で同僚に、今日はうりの命日で、と話したら、「えーやだー、考えたくないわ」とか、「今は想像したくもないですね」とか、犬や猫を飼っている人に言われた。
別にそれでもいいんだけど、いつか絶対に死ぬよ、って思ったりしていた。
私は今でも、うりが死んでいき、死んでしまう瞬間にいることができて本当によかったって思ってる。自分が次に死んでいくときまで忘れないだろうことを、あの猫は最後に残してくれたんだろうな、って今日もずっと考えていた。
そして、そのあとで押し付けられるような形だけど家族になった猫が今目の前で丸まって寝ているんだけど、もしこの3歳の猫が20年生きたとしたら、自分はもう67歳だ。
次こそちょうどいい頃合いかもしれないなとか思いながら、今日も生きていたり。